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「神様のカルテ2」佐久間の今週の一冊

2013年01月28日 日記

今週の一冊は夏川草介さんの「神様のカルテ」です。

医療のかかえる根源的な問題から、人間どう生きるべきか、という人生論まで書かれている本。
主人公の栗原一止(いちと)は、夏目漱石を敬愛する信州松本にある本庄病院に勤務する内科医で、
勤務している病院本庄病院は、地域医療の一端を担い規模の大きい病院。24時間365日などという看板を出しているせいで、3日寝ないことも日常茶飯事。連日連夜不眠不休の診察を続けている。

主人公は、信州の松本市内にある救急病院の若い内科医・栗原一止である。患者のことが気がかりで、毎日深夜深更にいたるまで職場に居続ける熱心な医者である。一方、学生時代に影響を受けた夏目漱石の愛読者で、その言葉使いも漱石時代そのままの古風な物言いをする青年でもある。彼は御獄荘という元旅館の木造アパートに、愛妻で写真家の愛妻・榛名と暮らしている。優秀な医者で、東京の大学病院からの誘いを蹴って、地域医療を続けようという人物である。

栗原の勤める病院に、彼の同期で東京の最先端病院で働いているはずの進藤という医者が赴任してくる。
進藤とは学生時代に、将棋部で駒を戦わせただけでなく、ひとりの女性をめぐって取り合ったという過去もある親友である。
だが、進藤は勤務票どおりしか勤務せず、呼び出しにも応じないという悪評が立ってしまう。
仕事人間だったはずの進藤に何があったのか。昔の新藤とは全く違う新藤だった。
一方、栗原とともに「家に帰っているのか」と言われている内科副部長・古狐先生が病院で倒れてしまう。悪性リンパ腫だった。
余命あとわずかと宣告された古狐先生は、妻の懸命な看病の中ベッドの中で涙する。栗原と榛名は、余命いくばくもない先生のために、ある一計を講じる。
「治療だけが我々の仕事ではない。」栗原は新藤にこう話し、スタッフに協力してもらい。
古狐先生が妻千代にプロポーズした標高三千メートル南アルプスを、病院の屋上で再現したのである。無数の星空が目に浮かぶ。
「千代。長い間、本当にありがとう。」誰も何も言わなかった。何も言えなかった。
この言葉が特に印象に残っています。
家庭を仕事よりも一番大事にしようとする進藤や、家庭をほとんど顧みることなく医療に勤しんだ古狐先生。そして、仕事に一生懸命な栗原と、見守る榛名。医療・医者とその家族、そして患者との関係が様々に話しが折り重なっている。

涙なくして読めない作品である。医者もまた人間であり、家庭もあれば感情もある。患者もまた人間であるから、人間同士のぶつかり合いが生じる。医者というだけでで、度を越したサービスを彼らに強要してしまう一方、医者の方も、家庭を放擲して仕事に埋没してしまう人種も少なくない。
一番の被害者は医者の家族かもしれない。家族と医者の様々な構図がこの本には書かれていて、様々な思いが書かれている。
医者と患者ではなく人間と人間。冷徹なように見えた医者から、人間味あふれる本で涙があふれてくる一冊です。

「風の教室」佐久間の今週の一冊

2013年01月23日 日記

今週の一冊は上岡伸雄さんの「風の教室」です。
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今日本中でいじめが問題となっています。その中でも多いのがちょっとしたいじめだそうです。

いじめている側は軽い気持ちが多いが、いじめられている側は深い心の傷を負ってしまっている。

この本の中では新任の先生と小学生の六年一組の交流が書かれています。

クラス内で起こっていたいじめに対し、新任の先生ことアッシーは、

「男が寄ってたかって、一人の女の子をいじめるなんて、なんて情けない奴らなんだ。お前らこれはただの弱い者いじめだ。

弱い者のいじめるをする奴は人間のクズだ。お前らは人間のクズか!」

こう怒鳴って子供たちをしかった。

アッシー先生はこれでいじめがなくなるとは思っていない。アッシー先生はラグビーで日本代表まであと一歩という所までいった。

しかし、怪我で諦めざるお得えなかった。

自分がやりたいことってなんだろうと、考え抜き。子供たちにラグビーの素晴らしさと魅力を伝えようと考えるようになった。

才能があるからラグビー選手になってほめられて終わりではなく、子供たちにラグビーやその精神を知れば、

人間的に大きくなれると考えた。そのために彼は大学に入り直し先生になった。

だからこそ現場でいじめを見つけては、いじめた子をしかる。

子供たちがラグビーや学級演劇を通していじめが無くなる様にした。

人が何かに情熱を注いで、困難なことに一歩一歩近づこうとしている時は、誰もいじめようと考えないからだ。

この気持ちが伝わったのか、最後はいじめていた生徒が、いじめられていた生徒に「ごめん、許してくれる?」

と頭を下げる。ラグビーを通し、いじめはしてはいけないと学んだのです。

熱中していることの中で、いじめをしてはいけないという事を学んでいったのです。

このことは今の教育現場では素晴らしいことです。

アッシー先生という、強い信念を持った先生に出会った生徒はとても幸せである。

スポーツは技術を身に付けるため、何度も何度も同じことを繰り返さなくてはならない。

いわゆる反復練習。退屈なことでも何度も繰り返すときちんと技術が身に付く。

アッシー先生がよく口にする、「基本」「姿勢」が今後に大きい影響を及ぼします。

「身体に刻み込む」。勉強もラグビーも同じことなのです。

アッシー先生と生徒との間にできた「愛情」「信念」「情熱」「信頼」このキーワードが書かれた本です。

日々のアッシー先生の言葉は印象に残るものばかり、信念をもって何事もやるというのは大変難しいこと。

そんな先生は日本中そうそういるものではありません。

今の日本人に足りないもの、それが書かれているようにも感じました。

「歓喜の歌は響くのか」佐久間の今週の一冊

2013年01月14日 日記

今週の一冊は斉藤一九馬さんの「歓喜の歌は響くのか」です。


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例えば場東北の山深い街で、産声をあげた名もないサッカーチームが、わずか3年のうちに晴れの天皇杯の決勝に挑むというシーンは考えられるだろうか?
答えはもちろんノー。
しかし、さかのぼること三十数年前、1975年元日の国立競技場でそんな奇跡が起きようとしていた。
日本サッカー史に輝く伝説のチームを追ったフィクションです。

1975年はJリーグ開幕の二十数年前である。
永大産業の創始者深尾茂。合板業界の有名人でこの方は超ワンマン経営者であった。永大産業は合板業界でトップシェア。
すべてを極めた商売人が、最後にほしがるのは、世間の賞賛と身を飾る熱意・勲章だった。
これは、自分の財力だけではどうにもならない。
叙勲への思いの強さは経済界での自分の地位に大きく関わっている。
いつしかそれを文化でもあるスポーツに求めようとする。一流企業は一流スポーツを抱えている。その時ふと思ったのが、スポーツの世界に「天皇」の名が冠された大会があるということだった。優勝チームに授与される菊の御紋入りの「天皇杯」。
いつしか日本一のスポーツチームのオーナーになってやろう。その思いはいつしか執念となるまでになっていた。
1968年メキシコオリンピックで釜本邦茂や杉山隆一を擁した日本代表は銅メダルを獲得した。
日本サッカーは初期黄金期をを迎えた。人脈の中にいた河野文博を顧問に迎え、たまたまサッカーの話をした所良い感触が得られた。その息子は日立製作所でサッカー部。その息子にサッカー部の監督を依頼したが、断られる。
父親の立場を考え、上智のサッカー部にいる友人の、白井恵三に相談。恵三は河口洋を紹介する。
河口は根っからのサッカー小僧。彼は深尾と「3年で日本リーグに上がれ」という約束をする。
山口県熊毛郡平生町を知る人はほとんどいない。この僻地で河口は3年で日本リーグを目指した。
初めは工場の経験者を集めた、サークル程度だったものが、深尾に直訴しいろいろな手を使いながら、三部二部とリーグをあげていく。
その中で、工場の連中たちを巻き込み。グラウンド設立や応援団結成など進めていく。
すべては深尾の「やったらええやないか」の一言である。
一年目で会社も上昇気流そして全国社会人選手権で優勝し、二部リーグ昇格。
会社では時価発行増資をして、126億という巨額の原資をえる。
だがしかしその年の5月3日に深尾は急性心不全でこの世を去ってしまう。享年64歳。
その後も破竹の勢いで進んでいく。
3年目いよいよ目標に近づく一部リーグに昇格した。
初めは勝てず最下位だったが、当時ありえなかったブラジル人トリオの入団させ、そこから快進撃も結果は9位であった。
そして、その年の天皇杯に挑むのである。台風の目になった永大産業は苦戦しながらも決勝戦に進む。その相手は釜本擁するヤンマー。一進一退の攻防も1対2で敗れてしまう。天皇杯にあと一歩届かなかった。

その2年後の3月1日、河口は永大産業を去った。
深尾亡き永大産業は1947年経営破たんする。
5つの銀行による協調融資団が結成された。合板不況が原因であった。
河口たちは存続運動を行い、そして危ういところで存続が決まった。しかし、それも一過性であった。河口は騒ぎを大きくした張本人としてけん責処分。一旦解散を引っ込めた会社はひそかに巻き返しを狙っていた。古参のサッカー部員に退部を迫り、内部から崩壊させようとしたのである。河口もけん責処分後、まったく畑違いの部署に配属になりサッカー部から足を遠ざかっていた。銀行の管理下にあった会社ではどうすることもできず、とうとう会社を辞めてしまったのである。
サッカーを続けられる就職先を希望した部員は16名。その16名の就職先がすべて決まったのが唯一の救いであった。
しかし消えたのはサッカー部だけではなかった。1978年3月20日永大産業は会社更生法を適用を申請し事実上の倒産。負債額は1800億円。戦後二番目の大型倒産だった。ニュースを知った河口は深尾が永眠する墓地に行った。
河口の青春は終わりを告げた。涙が零れ落ち花を湿らした。
2007年永大産業は再び再上場を果たした。河口は現在山口県平生町でサッカーのコーチを務めている。昔のあの頃と同じように。永大産業サッカー部の奇跡はあとわずかだった。

「ラーメン二郎に学ぶ経営学」佐久間の今週の一冊

2013年01月09日 日記

「今週の一冊」今年もよろしくお願いいたします。

今週の一冊は牧田幸裕さんの、ラーメン二郎に学ぶ経営学です。
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ラーメン二郎は2010年10月現在35店舗の直営店がありますが、そのほとんどの店で大行列ができています。

二郎=行列といっても過言ではありません。不況など全く関係ありません。

多くの人が二郎を求めて、待ち時間1時間でも行列に並びます。

二郎に並ぶ人は、ワクワク・ドキドキ感が感じられ、店内では二郎に挑戦する活気が感じられます。

このワクワク・ドキドキ感を感じられるのは、ラーメン二郎とディズニーランドだけではないでしょうか?

私もこの間、新代田店に行ってきました。そのボリュームに圧倒されましたが見事完食させていただきました。

なぜ、二郎がこんなに人気があるのか?その秘訣を明らかにし、日本企業の競争力強化のヒントが書かれている本となっております。

二郎のメニューはシンプルで基本的に「大」か「小」それだけで大行列です。いろいろなメニューを出せば出すほど、その店の個性は消えていく。

超大盛りの麺。超こってりスープ。分厚いチャーシュー。円錐形に盛られる野菜に構成される「二郎」から一切ぶれることはない。

そこには「自分の考えられる最高の二郎を提供しよう」という信念が感じられます。

自信があるからぶれない。日本企業も学ぶべき部分は多い。日本企業の競争力は下がり続け、エレクトロニクス企業はアジア企業に遅れをとっている。

国内初良くても海外はさっぱりの状況といった企業も多い。日本企業にはいまいち自信が感じられない。とまで筆者は書いています。

二郎に学ぶことで、今までとは違った魅力の出し方、特徴の出し方、差別化を得られるのではないでしょうか?

ラーメン業界は「分散型企業」で顧客の好みはバラバラで、好みに対するこだわりが非常に強い。

そのこだわりに応えることができれば小資本でも、事業として成功する確率が高まる。成功の肝は規模ではなく、差別化です。

ジロリアンは100万人いるとされています。

フェルミ推定結果で計算をすると・・・
座席数15席 滞在時間20分=3回転/時間 1時間の処理量45人 営業時間昼4時間夜4時間 8時間
15席×3回転×8時間=360人 
各店舗で二郎を食べる人は1日360人。諦める人も考えると400人前後。それ以上に食べたい人がいるので行列ができます。

コアジロリアンの人口推定
営業日25日/月 店舗数35店舗 訪問頻度1日/月
400人×25日×35店=350,000人と考えられる。インスパイア系も増えているので、セミジロリアンも含めて70万人いるのではないいでしょうか。

ジロリアンだけで100万人も前後もいる。収益性を充分高める人口です。

二郎の提供価値は「達成感」と「爽快感」にあり、どのようにお店独自のエッジを効かせるかが重要。

二郎はボリュームが非常に多い。仮に「小」をでも普通のラーメンの大盛りをはるかに超える。

ジロリアンは並んでいる時、大にしようか小にしようか考えています。

トッピングコールはゴングの瞬間。額から落ちる汗、次第に自分の限界が見えてきます。

ここからが本当の勝負。噛む飲む噛む飲む噛む飲む・・・これの繰り返し。そしてスープから麺をすくおうとしても重さを感じない時間がくる。これこそが自分に勝った瞬間なのです。

残った力を振り絞り、丼をカウンターに上げ、テーブルを拭き席を立つ。そこには達成感と爽快感があるのです。これは二郎しかありません。

特質といってもいいかなりのエッジの効いた二郎は、今の日本企業に必要なのかもしれません。

皆様一度二郎に行ってみてくださいね(笑)

2013年今年も宜しくお願い致します。

2013年01月03日 日記

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新年あけましておめでとうございます!
ついに巳年がスタートしました。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
写真は元旦の初日の出、那珂湊の景勝地「水門帰帆」からの日の出です。
今年の日の出予定時刻は6時49分だったのですが、残念ながら東の空には雲がかかっていて、日の出が見えたのは20分遅れのでした。しかしながら、雲から時折こぼれる光もまた幻想的でとてもキレイな日の出でした。
ちなみに、次の日の1月2日の日の出は水平線から見事にのぼる日の出だったそうです。
1日違いで惜しかったですね!