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「1ポンドの悲しみ」佐久間の今週の一冊

2013年02月27日 日記

今週の一冊は石田衣良さんの「1ポンドの悲しみ」です。

この本は30代のラブ・ストーリー集。都会に暮らす男女書いていました。1ポンドの悲しみには、もう大人になってしまった恋人達や夫婦の、ちょっとしたときめきや、こころのぶれが十篇書かれています。
個人的に面白かった「ふたりの名前」は、ドライな恋人達の話。
お互い同棲はしているもののとてもドライな二人の俊樹と朝世。二人の共有のものはなく、どんなものでもお互いのイニシャルを記入しお互いもめることをしないようにしていた。とても呆れた二人。
冷蔵庫の食料品にはTとAのイニシャルがたくさん。調味料や最近買ったTVの裏にはTの大きな文字が・・・
それが二人には当たり前のことであった。
ある時ひょんなことから知人の紹介で子猫が介入することで二人の生活は一変する。
生まれたての子猫。名前はまだ決まっていなかった。さすがに子猫にはお互いのイニシャルは書かれなかった。
この二人の家に来て3日目。子猫の体調が悪いことに気づく朝世。仕事中にはお互いに電話をしない約束であったが、どうしていいかわからず、俊樹に電話をする。朝世は彼氏に落ち着くように言われ、動物病院に。俊樹も仕事を抜け出しすぐに駆けつける。
診断の結果、心臓の左右の部屋を分ける筋肉の壁に生まれつき穴が開いていたのが原因だった。
二人は手術をするか、しないかの選択に悩むが、二人が出した結論は手術だった。成功の確率が低くても、家族の一員としてできる限りのことはしてあげたいという二人の思いであった。
二人のドライな生活に変化を与えつつあったこの子猫。
結果手術は無事成功。担当の主治医は「正直手術を選択するとは思いませんでした。この子の命を救っていただいてありがとう。」と感謝した。
その夜二人は、冷蔵庫に入っていたTと書かれたワインを飲み、Aと書かれていたチーズをつまみに祝杯を上げた。
そのあと二人は名前をまだ付けていなかったことに気づき、二人で朝まで名前を考える。
思いつく限りの名前が床を覆い尽くしていた。
その二人の笑顔はすがすがしく、昔を思い出したようだった。

「つるかめ助産院」今週の一冊

2013年02月18日 日記

今週の一冊は小川糸さんの「つるかめ助産院」です。

主人公のまりあは、一か月前に突如失踪した夫を探すために南の島に一人でやって来た。
その南の島は昔二人で訪れたハート形の島だった。
夫に失踪され、自暴自棄になっていたまりは、頼れる人もなく、帰る場所もない。
不安と孤独を抱えたまりあが、たまたま出会ったのは、「つるかめ助産院」の、鶴田亀子先生だった。
一日一回しか船が出ないこの島は、天候が悪いと船がすぐ欠航する。
そんなまりあは本州の宿に帰れず途方に暮れていた中の出会いであった。
三日間の足止めだった。
体調の悪そうなまりあは、亀子先生に昼食会に招待される。
やがてまりあは、亀子先生から妊娠を告げられる。
夫小野寺との子であった。
その間、助産院を手伝うこととなったまりあは、島の出産にも立ち会い、助産院の営みに参加したことで、誇らしい気持ちになる。
一旦は、南の島から離れようとしたまりあだったが、
まりあの体調と精神状態を見て、実はずっと心配してくれていた、
先生からの、優しく温かな手紙を受け取り、悩んだ末、スタッフとして働きながら、
島で出産することを決意する。
先生は出会った時からすべてをわかっていたのである。
「つるかめ助産院」を世界一快適な助産院にしようと、日々頑張っている、大らかで太陽のような鶴田亀子先生。
ベトナム人研修生のパクチー嬢、島のベテラン助産婦、エミリー。
ベテラン漁師の長老、「世界一周の旅の途中」だという青年サミー。
個性的なキャラクターとともに、まりあの心も徐々に打ち解けていく。
出生の秘密を抱えていたまりあ。
生まれてすぐありあは孤児院の入り口に置かれてていたのである。
その後安西夫妻に引き取られ、育てられていたが安西夫妻は同じくらいの子を無くしていたことを知る。
その子の誕生日。裕福な家庭だった安西家は、ホテルを貸し切り誕生日パーティを行っていた。
何のための誕生日会なのか、小さい子にはまったく理解ができず、自分の存在意義はなんなのか自問自答する。
そんな時家庭教師の小野寺と出会い、まりあは自分の居場所を見つける。
お互い惹かれあった二人はまりあが18歳の時、かけおちをし安西家を出ていった。
初めて自分を必要としてくれる人に出会ったまりあは、幸せの絶頂であった。
しかし、今は小野寺がいない・・・・
望まれない子どもだったと、自分自身をずっと肯定することが出来ずにいた、まりあだったが、個性豊かな島の人々と、働き、笑い、泣き、暮らしていくうちに、少しずつ、孤独だった過去にも向き合い、自身が母になることを受けとめて行く。
そしてクライマックスのお産では、行方不明だった小野寺が現れる。

出産というのは、命と向き合う行為。
現在病院での出産が当たり前となった現在。
つるかめ助産院では自然に近い形での出産を勧めていた。まさに理想の出産である。
出産は生と死とも隣り合わせ。
それだけに、「出産」を無事乗り越えたら、何とも言えぬ、誇らしい気持ちになるものです。
「赤ちゃん」は、希望や光を感じさせるもの。

宿った命が、母を温かくリラックスできる場所を提供している先生。
人間的なお産ができるつるかめ助産院はまさに理想郷。
命と向き合う大事さを知った本でした。

「バッテリー」佐久間の今週の一冊

2013年02月06日 日記

今週の一冊はあさのあつこさんのバッテリーです。

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4月から中学生の原田巧(たくみ)、弟の小学4年生の青波(せいは)は父の転勤のため(父・広、母・真紀子の4人)広島と岡山の県境にある新田市へやってきた。人口6万人の母、真紀子の実家である。真紀子の父、洋三が済んでいる。昔、父と母と巧が住んだ場所でもある。洋三はかつて新田高校を率いて春夏合わせて10回甲子園に出場した名称だった。

巧は同年代よりも際立って目立つ凄いピッチャー。引越しした夜、毎日続けているランニングをしていると、地元の同じ年の子、永倉豪、江藤、澤口、東谷たちと出会う。この少年達は、少年野球で有名だった巧の存在を知っていた。自信過剰タイプの巧を、キャッチャーをやっていた豪は毎日のようにキャッチボールに誘った。なぜか巧は豪に対して心を許しているように思える。豪は大きな病院の息子で、進学校に進む様母親に言われていた。だが、巧みと同じ高校に通い甲子園も夢ではないと豪は喜ぶ。少年達は巧という存在を中心に自分達の野球が芽生える。

弟青波は生まれつき体が弱く、生死をさまようほどだった。父と母ともに青波につきっきり。巧はその環境で、父と母の愛情に飢えていた。父は野球音痴、母は祖父が高校野球をやっていたこともあり、野球はもううんざりで、青波が野球をやりたいといったきっかけは、調べると祖父と巧の影響であったと知る。そのことに不満を持ち続けていた。

しかし、巧から見ると祖父は伝説の名将。祖父はあまりしゃべらないものの巧の能力、性格も見抜いていた。
母親達は現代の現代の学歴社会の中で、好きなことはやらせたいと思いつつも将来を考えて息子の為を思い野球をやめさせ、勉強をさせたいと思った。

巧は豪の母親から、「野球を辞めさせるように言って」といわれた時、そんなことは俺から離すことじゃないと思っていた。巧がどうこういう理由はないからであった。それよりも、夢を認めてくれない現実とのギャップに子供達は嫌気が差しているように思った。

子供達は絆が強い。青波が迷子になり、みんなで探していた時巧が池に落ちる。
普段冷静な巧が焦って豪に助けを求める。すると豪が、「お前きっとピンチに弱いぜ!」「原田巧にだって弱点があるということじゃ。」「だけど、それを俺達がカバーしていく。いつまでも原田が凄いと感心してられん。」と言った。

巧の心の中では両親、青波、祖父、友達ともっと素直になって話したり、自分だけじゃなくみんながいると変化が起こり始めていた。ここからが、少年達の野球のスタート地点。野球は一人では決してできない。9人いてこそのスポーツ。自分だけではなく人をまとめる、人に頼る事の大切さを知る。人間一人では生きていけないのだから。

初マラソン挑戦!

2013年02月03日 日記

マラソン完走.JPG
みなさんこんにちは!スズキアリーナ水戸桜の牧店の磯崎です。
私事ではございますが、先週ひたちなかで行われました、「第61回勝田全国マラソン大会」に参戦して参りました。なんと私この大会がマラソン初挑戦でございます。
当日は天気も良く、フルマラソンの部と、10キロの部とで合計23,000人もの人がエントリーされました。
大会当日の勝田駅はまるでロックインジャパンのような人の波ができていました。
ロックと違っていたのは皆さんジャージ姿でした(笑)

さて、急にマラソンに出ようと思ったのは昨年9月ごろ、ノリで友人と東京マラソンにエントリーしてみたのですが、あえなく落選。
それじゃしょうがないって事でなぜか走る覚悟もできていないのに勝田マラソンにエントリーしちゃいました。勝田マラソンは特に申込の制限がありませんので、申し込めば参加確定です。
そして11月からマラソンに向けての準備を始めました。

始めは10キロを走るのが精一杯だった私ですが、週に2回から3回の練習を重ね、最長21キロくらいまでは走れるようになりました。あとは、ネットや雑誌などで何が必要か(サプリなど)情報を集めて当日に向けて調整しました。

いよいよ当日、天候にも恵まれ絶好のマラソン日和。
緊張の中スタートを切ると、順調に距離を走ります。
昨年は10キロに部に参加して、メイン通りを往復して帰ってきたのですが、今回はフルマラソンですのでメイン通りを過ぎて裏路地にの方に向かいます。
私が一番驚いたのは、途切れることの無い沿道の応援です。
事前の情報で勝田マラソンは沿道の応援や施設エイド(水や食べ物を配ってくれる方々)がたくさんいらっしゃるという事は頭の中に入れておいたのですが、想像以上でした。
最初から最後まで温かい声援を頂いたのが一番のエネルギーになりました
ネット等の書き込みににもありましたが、この声援の多さが勝田マラソンの最大の魅力のひとつだそうで、市民の方々や企業の方々などがひとつになって勝田マラソンを応援している姿をみると、次の次のオリンピックは東京ではなく茨城でもできるんじゃないかと思う私でした。

さて、肝心のランの方ですが、順調だったのは走った経験のある21キロまでで、道の距離に入ってくるとだんだんと足が言う事を聞いてくれなくなってきました。
よく、「マラソンは35キロが一番つらい」なんて事を耳にしたことがあるのですが、体験してみると本当に辛いの一言。
これは言葉で表すより体で感じなければ分かりません。
それでも、30キロの関門(30キロ地点で4時間30分を経過すると強制リタイア)3時間ほどで通過して、なだらかな坂が連続する地点を通過し、ついに残り5キロの看板が見えると心が「ほっと」しました。

と、同時に足が止まってしまいました。

まさに、完走つまりゴールを意識したとたんに心が折れてしまいました。
タイムとしては4時間30分を切るペースで来ていたのですが、最後の5キロが非常に時間がかかってしまいました。交通規制も解除され始め、信号ごとに停まると、もっと足が動きません。

やっとの思いで残り数百メートルにたどり着いた時には、沿道の皆さんに応える力は残っていませんでした。

それでも必死の形相でなんとかゴール。

フルマラソンを完走したときってどんな気分なのかって色々と想像していましたが、「達成感」というよりは「安堵感」のほうが大きかったです。

タイムは4時間37分でした。もう少し頑張れば4時間30分を切れたのですが、タイムよりも無事に完走できたほうが喜びとしては大きかったです。

そんなわけでなんとかマラソン初挑戦でなんとか完走することができましたが、沿道の方々の応援や運営スタッフの方々には本当に感謝しております。自分の完走よりもそっちの方の感動が大きかったです。機会があれば、当社も施設エイドなどを出して、皆さんの応援をしたいと思いました。

来年も?

っと、いう気持ちはまだありませんが(ところどころ体が痛い)今日は別府で川内選手が走りますので、先週を思い出してテレビの前で応援したいと思います。

最後に


マラソン、皆さんもいかがですか??

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